遥かなる旅 1

この頃パーンは、家で過ごすことが、多くなっていました。
羊の世話は、アベルに任せて、家で花の手入れをしたり、カインと遊んであげたり、していたのです。
パーン「ほら、カイン。お父さんに向かって、ボールを投げてごらん。」
カイン「………。」
カインは、地面に落ちたボールを、拾いあげようともせず、ぼんやりと眺めていました。
パーンは、カインのことで、思い悩んでいました。
「カイン…。この子は、本当にこれから、一人で立派に、やっていけるのだろうか?アベルは、キチンと自分の考えを述べることも出来るし、伸び伸び感情を表す事も、出来る。でもこの子は全く、自分自身を表現する事が、出来ないのだ…。やはり、奴隷として扱われていた辛い記憶が、この子の心の働きを、遮っているのだろうか?私は親として、どの様に接してやればいいのだろう?どうすればこの子は、心を開いてくれるのだろう?」
その時、パーンの家の門をくぐる人影が、目に入りました。
パーンがそちらに目をやると、それは…。
パーン「おお…、これはエリヤ様!」
エリヤはいつも、物乞いと間違えられそうな、貧しい出で立ちでした。
エリヤ「パーン、カルナの一件以来じゃな…。元気で、やっておるか?」
パーンは、嬉しくなりました。
エリヤがやってくる時、それは必ず、吉報の訪れる時だったからです。
パーン「勿論ですとも…。ほら、カイン。ちゃんと、挨拶なさい。」
カインは、口を開く代わりに、鼻くそを熱心に、ほじくり出していました。
エリヤ「相変わらずじゃな、カインよ。早速じゃがパーン、アベルは今、どこにいる?わしは、アベルに用があって、来たんじゃ。」
パーンは苦笑いして、言いました。
パーン「さあ…、牧場のどこかには、いるでしょうが。最近、アベルががんばってくれまして、うちの牧場も、随分大きくなったんです。アベルは、頼もしく成長してくれました…。」
エリヤも感心した様に、笑って言いました。
エリヤ「そうか…、それは、何よりじゃな。では、アベルが帰ってくるまで、待たせてもらってもよいか?長旅、というほどではないが、わしも歳じゃな…。ここに来るまでに、随分くたびれてしまった。」
パーンは客人を、ずっと立たせていた事に、ようやく気が付き、恥ずかしい思いがしました。
パーン「これは、失礼しました…。中へ、お入りください。大した物はお出しできませんが、お茶ぐらいは、いくらでもありますから。ゆっくり、休んでいってください。」
エリヤは心から、感謝の意を、表しました。
エリヤ「では遠慮なく、そうさせてもらうとしよう…。」

日も暮れた頃、アベルが帰ってきました。
アベル「ただいま…。誰だろう、お客さんかな?」
アベルは、カルナに呼びかけました。
アベル「カルナ!誰か、お客さんが来てるのかい?」
エリヤ「わしじゃよ。」
エリヤは、ひょいっと、顔を出しました。
アベルは、びっくりしました。
アベル「エリヤ様!どうしました、急に?」
アベルは嬉しくて、一日の疲れが、吹き飛ぶ思いでした。
アベル「カルナ!この前、ゼウス様からもらった、とっておきのワインがあったろう。あれを出してくれ…。エリヤ様は、お酒の味わいのわかるお方だ。そういう方に飲まれてこそ、酒にとっても本望というものだ…。」
エリヤは、少し困った様子でした。
エリヤ「いいんじゃ、いいんじゃ…、アベル。気を使ってくれるな。あんまり気を使われると、わしはこの家に、気軽に立ち寄れなくなるじゃろう…。」
カルナが、ワインとグラスを、運んできました。
カルナ「ほらアベルったら、エリヤ様、エリヤ様って!恋人としては、面白くないわよね。全くアベルにとって、一番大事なのは、エリヤ様かしら?それとも、私?」
パーンは、朗らかに笑いました。
パーン「こらこら、カルナさん。アベルを困らせてくれるな。アベル、お前は今の質問に、どう答えるつもりだ…?まあ、答えられまい。女性というのは、皆そうだ。男を困らせて、それで悦に入るのだよ…。でも、それは愛しているからであって、そうですよね、エリヤ様?」
エリヤも、安心した様に、染み染み言いました。
エリヤ「まあ、そういう事じゃな。アベル、お前さんは、いやお前さん達は幸せ者じゃよ。世の中には、お前さん達の様に、お互いを満たすことのできない者たちも、沢山おるのだから…。世の中の家族が、皆この様に暖かったら、道を誤る者は、随分減るじゃろうな…。」
カインは、耳のクソをほじり、息を吹きかけて、飛ばしておりました。