すばらしい日々(Grunge Spirits) 3

ゼロムは、あちこちに散歩した。
オレンジのTOMOSはもちろんあったが、空気がきれいだった所為だろうか、体を動かしてみたいという衝動を感じたし、何より自分の脚でどこまで行けるのかを試してみたかった。
ゼロムは、山脈に沿って走る県道を、ずっと歩いて行った。
一日に、五時間でも六時間でも、納得出来るまでどこまでも歩いた。
一日を何事もなく歩き過ごして、家まで辿り着き、ゆったりと風呂に浸かる…。
何よりも心地よい習慣であった。
ある時彼は、観光地の近くまで歩いて出て行き、コンビニで菓子パンとコーヒー牛乳を買った。
店の外に出ると、澄み渡る、青く高い大空だった。
「蒼穹とは、この事なのだ!」
ゼロムの心は叫び、一人悦に入っていた。
…一人の女性が、地図を片手に持ってコンビニを出てきた。
菓子パンを咥えて、何の気もなく眺めていると、辺りをキョロキョロと見渡し…、どうやら迷っている様だ。
大きな麦わら帽子を被り、空色のワンピースに腰には赤いベルトを嵌めていた。
女性は、ゼロムに声を掛けた。
彼は、村人達の気さくさに慣れていて、人付き合いをあまり厭わなくなっていた。
「どうしました?見たとこ、旅の人みたいですね。」
「すいません、サルクホテルに行きたいんですけど、道がわからなくて…。この近くだと、思うんですけど。」
ゼロムは心の中で、「まあ、タクシーが確実だけどね。」と思ったが、口には出さない。
地図を見せてもらうと、成る程行った事はあるし、そう遠くはない。
彼が説明を始めると…。
「…送ってもらえませんか?」
キレイだし、ま、いっかーと考え、歩き始めた。

彼女はラフィーネと、名乗った。池袋にある大学で、法学部に在籍しているとの事である。
ゼロムは、初めこそキレイだし楽しくもあったが、話を続けて行く内に何となく愛想よくされているだけの様な気もした。
本心が感じ取れない事に、ボンヤリとした不安の様なものを感じ始めている。
サルクホテルに辿り着くと、ラフィーネはメモを取り出して何事かを書き付けた。
そしてゼロムに握らせると、お礼を言って立ち去った。
広げるとそれは…、メアドであった。

ゼロムは別荘に帰り、日課になっているスマホ弄りを始めた。
彼は、ヴィンテージのロックンロールに憧れていて、古いライブの映像を検索していた。
ゼロムは、The Rolling Stonesの「Honky Tonk Woman」に熱い視線を送った。
ゼロムの目には、彼らの生き方は何よりもカッコよく、また男らしさに溢れていた。
しかし同じぐらい強く、自分にはとても無理な生き方だ、と確信していた。
彼はフ、とラフィーネのメモを思い出した。
スマホには登録してある。
彼だって、年頃なのだ。
様々な、煩悩に悩まされる。
そうした事もまた、神聖なのだ。
ゼロムは済ませると、家の外に出た。
もう夜だったが、すぐ目の前に建っている自治会館には、まだ明かりが灯っている。
人々の賑やかな話し声が、漏れ聞こえてきた。
彼は微笑み、いつかそうした場所にいる自分を思い浮かべた。
今が寂しいとか、羨ましいとは思わない。
ただ、微笑ましいとは思ったし、素敵な場所だとは考えた。
その時、小さな緑色の光が、彼の周りで明滅した。
ゼロムは戦慄する。
「悪霊の群れに、取り囲まれているのか!?」
…それは、蛍だった。
辺り一面に、微かな輝きを放ち、まるでゼロムを祝福しているかの様であった。
ゼロムは、静かな湖面の様な気持ちで、想いを馳せた。
「何も、焦る事なんかないんだ…。全てに祝福は降り注いでいる。そして、それは永遠に続くだろう。何故なら誰だって、そう望んでいるのだから…。」
彼は布団を敷き、横になった。
神から降り注ぐ様な、神聖な眠気が彼に覆い被さった。