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すばらしい日々(Grunge Spirits) 5

ゼロムはよく、雑貨屋さんに立ち寄った。
彼はそれしか買わなかったが、お店のおばあちゃんもそれはよくわかっていた。
時にファロムは14才で、中学校に通っていた。
引っ込み思案ではあったが、友達付き合いも悪くはなくごく普通である
しかし、何故か計算が出来なかったのだ。
知能テストの結果も、悪かったという事はないのだが、簡単な足し引き算ですら、時間がかかりにかかり、最後には投げ出してしまう。
おばあさんが留守の時に、またゼロムは店に立ち寄った。
今度はファロムは店先まで出て来て、この前の事でどれだけ自分が悩み、苦しんだかを渾々と聞かせた。
勿論ゼロムには、そんな事は理解出来ない。
ファロムは、コーヒーを淹れた。
コーヒーは、ファロムの趣味の一つだ…。
パソコンで色々な種類の豆を調べては、母に頼んで注文してもらう。
淹れ方も、達者なものだ。
今淹れたコーヒーは、ハワイ産のコナコーヒーで、酸味と香りに特徴がある。
ファロムは、ゼロムがコーヒーをすするのを、ドキドキしながら見詰めていた。
ゼロムは、カップから口を離し、こう穏やかに語った。
「…うっすいな。」
ファロムには、背骨をへし折られる様な衝撃だったが、仕方がない。
ゼロムにとって、コーヒーと言えばマキシムのインスタント・コーヒーであり、悪くは無いがドリップしたコーヒーとは本質的に違う。
ゼロムは言った。
「オレさ、濃いやつが好きなんだ。」
それでも、ファロムは次の日水筒にコーヒーを入れて、学校に持って行った。
誰にも、その事は言わない。
別に秘密ではなかった。
誰にも、言う気がしなかっただけの事だ。

ファロムは、あまり出掛けなかった。
TVの画面に色取り取りに映し出される、「東京」という街に憧れはあるにはあったが、実現しようと真剣に考えた事はない。
彼女は、昔亡くなった父の書斎から、蔵書を取り出しては読み漁った。
ファロムは、日本の近代文学に、強く心を惹かれている。
夏目漱石志賀直哉川端康成等何でも読んだ。
彼女が、計算が出来ない理由はそこにあったのかも知れないが、ファロムは読んだ文章を全て暗記していた。
それでも読んだし、西陽が差す居間で、思い返しては目眩く想像に耽っていた。
ファロムは、コーヒーを学校に持って行ったその日、久し振りに与謝野晶子を読み返したいという、想いが湧きあがる。
理由などどうでもよかった。
ファロムにとっての何よりの苦痛は、理由を尋ねられる事だったから。
歌集のページをめくる度、色鮮やかな思慕の情景が、紅葉した山々の様に拡がっていた。
彼女は、思った。
…私の想像力は、今確かに生命を宿している。
どくんどくんと脈打つ、血の巡りが聴こえてくるようだ…。
歌集に開かれた世界は、彼女が来るのを、今か今かと待っていたのだ!
ファロムは、躊躇せずに飛び込み、情念に溺れた。

夕飯の席で、お母さんは言った。
「友達とは、上手く行ってるの?」
あまりにも出掛けない、ファロムが心配になったのだろう…。
弟は、TVの中のバラエティにはしゃぎ、一喜一憂していた。
ファロムは、計算の他に説明も出来なかった。
言いたい事が、広い緑色の草原の様に一度に広がってしまって、まとめられない。
そんな時決まって、彼女はうつむいて涙ぐんでしまうのだ。
弟はリモコンで、カチャカチャと忙しなくチャンネルを変えながら、大きな声で言った。
「姉ちゃんさー、人気あるんだぜ?おれ、その事でよくからかわれるんだよー!おれに言っても、仕方ないのにな。」
母は安堵しなかったろう。
しかし、言った。
「明日また、店番お願いね…。ヘルト、あなたも手伝ってあげて。」
「げぇっ!めんどくせーなー。」
ファロムの瞳には、ゼロムの姿があった。