夏祭りの準備は、順調に進んでいた。
広場の中央にはやぐらが組まれ、そこに大太鼓が設置されている。
屋台も幾つか並んでいて、カラフルな電球に照らされていた。
ゼロムは、緊張していた。
彼は上がり症で、吐きそうだった。
ステージの様な、大袈裟な物が用意されていた訳ではない。
広場の一角にブルーシートが敷かれ、パイプ椅子が並んでいるだけだ。
彼は観客席の方を向いている、一つの椅子に座りギターを爪弾いてみる。
そういえば、いつの事だろう…?
ロックンロールに、魅入られてしまったのは。
ゼロムの容姿は、人より劣っていた訳ではない。
彼自身がそう思い込んでいた所為かも知れないが、何故かそれを理由に学校で責められていた。
彼らはゼロムについて、そうした評価しかしなかった。
いつの事だったろうか…?
体育の授業が終わった時、ゼロムの体操服が土で汚れていた。
彼らはその事を囃して、彼を袋叩きにした。
担任は、見て見ぬ振りをした。
いつもの事だったからである。
その日の帰りに、駅前のレンタルビデオ屋に寄った。
彼は、いつもの様に邦楽の棚を見ていたが、ギターを背負った若い女性が、洋楽の棚の列に入って行った。
彼は、別に何かを期待していた訳ではないだろう。
何となくカッコよかったから…、その程度の理由である。
ゼロムは、洋楽の棚の列に入り、CDを眺めた。
そこで、見つけたのだ。
Iggy and The Stoogesの「Raw Power」を。
足が、震えた。
たまらなく、カッコよく見えた。
詰まらない「何か」を、全てぶっ飛ばしてくれる…。
そんな期待を抱き、レジに並んだ。
家に帰り、CDプレーヤーに掛ける。
一曲目の「Search&Destroy」が、ゼロムの狭い部屋に鳴り響いた。
最高だ!!
全てが、何もかもが変わった。
自分が現実だと考えていた「何か」は、全てウソだった。
ここでかき鳴らされるギター、熱い叫びこそが現実なのだ。
このエロティックで、カオスで、エキサイティングな「何か」こそが物事の本質である。
そう、ゼロムは結論を下した。
ゼロムはその日以来、小遣いをみんなCDにつぎ込む様になった。
もうすぐ、出番だ…。
お客さんが、少しずつ集まって来る。
あの時聴いたIggyの様に…、はとてもなれない。
彼は、手元のギター「Silver Star」を眺めた。
使い込まれている。
地味な味わいだが、弾き手のタッチやニュアンスをよく伝える名器。
まるで、忠犬ハチ公の様だ…。
どこまでも、ただひたすらに着いて来る。
その価値は、まだゼロムにはわからない。
だが、自分がかき鳴らせば、それはオレの音なんだ。
そして、オレが望んでいるのはオレの音だ。
オレは、Janis Joplinじゃないし、Wayne Kramerでもない。
Ray Davisみたいになれやしない。
…でも、オレはオレなんだ。
時間は、その時を告げた。
ゼロムは、パイプ椅子に座り、観客に挨拶をする。
何を言ったのか、覚えていない。
緊張し過ぎていて、まとまらなかった。
しかし、始めた。
ゼロムが、ずっと口ずさんでいた曲。
辛い時も苦しい時も、いつも、掛けていた。
ギターを手にしてから、ずっと練習してきた
Bob Dylan「Like A Rolling Stone」を。
たかだか、一ヶ月の練習で大した音の出る筈もない。
彼は、別にカッコよくもなかったし、お客さんが熱狂した訳でもない。
でも何か…、心温まる「何か」は伝わった気がする。
Guydtoneの小さなアンプは、目一杯張り上げた音で叫んだ。
艶のない音?
バカな!
安っぽい尻軽女の様に、テカテカと塗りたくっていないだけだ…。
まるでアゲハ蝶の羽の光沢の様に、触れる者を虜にせずにはおかない。
ゼロムは思う。
まだまだだ!
何もかもがこれからだ…、見ていろよ!
何に見ていろなのかは、わからない。
しかし確かな一歩を踏み出した充実感が次の一歩、そして未来への手応えを予感させる。
演奏が終わった後、酔った赤ら顔のおじさんが、生ビールの入った紙コップを手渡してくれた。
ゼロムはお礼を言うと、一気に開けた。
おじさんは言った。
「よかったぜ、兄ちゃん!また、来年頼むよ。」
ゼロムは興奮の余韻が冷めない中で、東京に帰ってもいい…。
そう、考えた。