すばらしい日々(Grunge Spirits) 12

夏祭りの準備は、順調に進んでいた。

広場の中央にはやぐらが組まれ、そこに大太鼓が設置されている。
屋台も幾つか並んでいて、カラフルな電球に照らされていた。
ゼロムは、緊張していた。
彼は上がり症で、吐きそうだった。
ステージの様な、大袈裟な物が用意されていた訳ではない。
広場の一角にブルーシートが敷かれ、パイプ椅子が並んでいるだけだ。
彼は観客席の方を向いている、一つの椅子に座りギターを爪弾いてみる。
そういえば、いつの事だろう…?
ロックンロールに、魅入られてしまったのは。
ゼロムの容姿は、人より劣っていた訳ではない。
彼自身がそう思い込んでいた所為かも知れないが、何故かそれを理由に学校で責められていた。
彼らはゼロムについて、そうした評価しかしなかった。
いつの事だったろうか…?
体育の授業が終わった時、ゼロムの体操服が土で汚れていた。
彼らはその事を囃して、彼を袋叩きにした。
担任は、見て見ぬ振りをした。
いつもの事だったからである。
その日の帰りに、駅前のレンタルビデオ屋に寄った。
彼は、いつもの様に邦楽の棚を見ていたが、ギターを背負った若い女性が、洋楽の棚の列に入って行った。
彼は、別に何かを期待していた訳ではないだろう。
何となくカッコよかったから…、その程度の理由である。
ゼロムは、洋楽の棚の列に入り、CDを眺めた。
そこで、見つけたのだ。
Iggy and The Stoogesの「Raw Power」を。
足が、震えた。
たまらなく、カッコよく見えた。
詰まらない「何か」を、全てぶっ飛ばしてくれる…。
そんな期待を抱き、レジに並んだ。
家に帰り、CDプレーヤーに掛ける。
一曲目の「Search&Destroy」が、ゼロムの狭い部屋に鳴り響いた。
最高だ!!
全てが、何もかもが変わった。
自分が現実だと考えていた「何か」は、全てウソだった。
ここでかき鳴らされるギター、熱い叫びこそが現実なのだ。
このエロティックで、カオスで、エキサイティングな「何か」こそが物事の本質である。
そう、ゼロムは結論を下した。
ゼロムはその日以来、小遣いをみんなCDにつぎ込む様になった。
 
もうすぐ、出番だ…。
お客さんが、少しずつ集まって来る。
あの時聴いたIggyの様に…、はとてもなれない。
彼は、手元のギター「Silver Star」を眺めた。
使い込まれている。
地味な味わいだが、弾き手のタッチやニュアンスをよく伝える名器。
まるで、忠犬ハチ公の様だ…。
どこまでも、ただひたすらに着いて来る。
その価値は、まだゼロムにはわからない。
だが、自分がかき鳴らせば、それはオレの音なんだ。
そして、オレが望んでいるのはオレの音だ。
オレは、Janis Joplinじゃないし、Wayne Kramerでもない。
Ray Davisみたいになれやしない。
…でも、オレはオレなんだ。
時間は、その時を告げた。
ゼロムは、パイプ椅子に座り、観客に挨拶をする。
何を言ったのか、覚えていない。
緊張し過ぎていて、まとまらなかった。
しかし、始めた。
ゼロムが、ずっと口ずさんでいた曲。
辛い時も苦しい時も、いつも、掛けていた。
ギターを手にしてから、ずっと練習してきた
Bob Dylan「Like A Rolling Stone」を。
たかだか、一ヶ月の練習で大した音の出る筈もない。
彼は、別にカッコよくもなかったし、お客さんが熱狂した訳でもない。
でも何か…、心温まる「何か」は伝わった気がする。
Guydtoneの小さなアンプは、目一杯張り上げた音で叫んだ。
艶のない音?
バカな!
安っぽい尻軽女の様に、テカテカと塗りたくっていないだけだ…。
まるでアゲハ蝶の羽の光沢の様に、触れる者を虜にせずにはおかない。
ゼロムは思う。
まだまだだ!
何もかもがこれからだ…、見ていろよ!
何に見ていろなのかは、わからない。
しかし確かな一歩を踏み出した充実感が次の一歩、そして未来への手応えを予感させる。
演奏が終わった後、酔った赤ら顔のおじさんが、生ビールの入った紙コップを手渡してくれた。
ゼロムはお礼を言うと、一気に開けた。
おじさんは言った。
「よかったぜ、兄ちゃん!また、来年頼むよ。」
ゼロムは興奮の余韻が冷めない中で、東京に帰ってもいい…。
そう、考えた。