ここではない、どこか。
牧畜を司る神、パーンがいました。
その息子の名前は、アベル。
このアベルこそが、この物語の主人公です。
パーン「アベル。明日はお前一人で、この羊の面倒を、見なきゃならん。それが牧神としての、お前の最初の試練になるだろう。」
アベル「父さん、わかったよ。ぼくは、必ず一人でやり遂げてみせる。期待してて!」
パーン「うむ。お前なら、きっとやり遂げられる。だが、油断だけはするなよ。男が何かを成し遂げようとするとき、最も恐ろしいのは、この油断なのだから。」
アベル「大丈夫。ぼく、そんな事しないよ。そっかー、楽しみだな。早く明日に、なればいいのに。」
パーン「うんうん。我が息子ながら、頼もしい事だ。」
翌日アベルは、羊達を放し、自由に草を食べさせておりました。
そうすると、小さなか細い、叫び声が聞こえて来たのです。
「あれー!誰か、助けて下さーい。羊が、羊があたしを食べようと…。」
アベルは、ハッとして辺りを窺いました。
しかし、神や人間の姿は、どこにもありません。おかしいと思い、羊達の口元を、よく観察してみると…。
小さな、タンポポの花が咲いていて、その葉っぱを、羊が食べようとしていました。
アベル「これ、お前。その葉を食むのは、お止しよ。」
羊は、メェ〜と鳴き、あちらへ行きました。
アベルがよく見ると、花の陰で、それはそれは小さな女の子が、震えていました。
アベル「君かい?さっき、叫び声を上げたのは?」
女の子「ええ、そうです。羊は、あっち行った?」
アベルが頷くと、女の子はスッと立ち上がり、こう言いました。
「あら、ありがとうございまして。あなたが、あの悪い羊を、追っ払ってくれたんですね?」
アベル「うん、まあ…。ぼくの羊だから。」
女の子は、眉を吊り上げて、怒りました。
女の子「それは、ひどいですわ!あたし、あと少しの所で、食べられそうだったんですよ。羊の管理を、ちゃんとして下さい!羊飼いとして、失格です。」
アベル「ぼくが、悪かったんだけど…。ぼく、今日が初めてなんだよ?羊の番するのさ…。だから、許してよ。」
女の子は、ハッとして言いました。
「あら、それは失礼!でも、知っておいてくださいね。羊達の食事には、常に危険がつきものだと。私達花の精にしたら、それこそ命がかかつてるんですから。」
アベルは花の精と聞いて、少し興味が出てきました。
アベル「へぇ、君!花の精なんだ。ぼくは、花が好きでさ。家じゃ、色んな花を咲かせてるんだ。そっか。花には、花の精がいるんだ…。」
女の子「ええ、そういう事です。何にせよ、あなたに命を助けて頂いたのですから、お礼を申し上げます。ありがとう。もっとも、失いそうになったのも、あなたのせいだけど…。」
女の子は、小さな頭を、ちょこんと下げて、挨拶しました。
女の子「申し遅れました。私は、ノア。タンポポの、花の精よ。」
こうして、その日は別れました。
しかしアベルは、何となくノアの事が気になって、夜眠れませんでした。
アベルは、空が晴れているのを見ると、朝早く井戸の水を汲んで、ノアの元に向かいました。
アベル「やあ、ノア。起きてる?」
ノア「もう、起きてます。花の朝は、早いんですの。昼になると、虫達が蜜を集めに来るでしょ?その蜜を、こさえとかにゃいけないんですのよ。」
アベルは、感心して言いました。
アベル「そうなんだ。花の世界も、色々あるんだね。」
ノア「ところで、何の用ですの?申し上げたとおり、あたし、忙しいんですの。花の世界では働くのに、大人も子供も、ないんですからね!」
アベルは、笑顔で言いました。
アベル「今日は晴れてるから、水を汲んできたよ。渇いてるだろ?」
ノア「ま〜、素敵ですわ!あたし達花にとっては、新鮮な水が、何よりのご馳走ですの!ねぇ、早くかけて、下さらない?」
アベルは、贈り物を喜んでもらえて、上機嫌で答えました。
アベル「いいよ、ほら!」
ノア「ああ〜、おいしい。何て気持ちがいいんでしょう!ありがとう、アベル。あたし、お腹いっぱいになったわ!」
アベル「いいんだよ、これくらい。またよかったら、汲んでくるよ。」
こうしてアベルは、晴れている日はいつも、ノアの所に、水を汲んで行きました。
アベルは、空が晴れていると、喜んで目を覚ましました。
それは、ノアに会えるからです。
反対に、雨が降ると、憂鬱でした。
それは、やっぱり同じ理由で、ノアに会えないからでした。