美しき詩人の愛 5

そしてある日、マグダレーナの前に、フラリとヨハネが現れました。
マグダレーナ「どうしてたの、ヨハネ?私、心配してたのよ…。でも、よかった。こうして、姿を見せてくれたんだから。」
ヨハネは、目を爛々と輝かせて、言いました。
ヨハネ「もう、仕事は終わりだろ?マグダレーナ…。」
マグダレーナは、相手にせず笑って返しました。
マグダレーナ「だったら、どうだって言うの。食事にでも、誘ってくれる?」
ヨハネは、うつむいたまま、誰に言ってるのかわからない様子で、言いました。
ヨハネ「そうだよ…。ぼくと、飲みに行かないか?」
マグダレーナは、笑ったまま言いました。
マグダレーナ「あら、いやだ。また、前のおふざけを、ぶり返したの?誘うんだったら、こんなおばさんじゃなくて、もっと若い子を誘いなさいよ…。」
ヨハネは、どこかしら思い詰めたような、きつい口調で言いました。
ヨハネ「ぼくは、君を誘ってるんだ!行ってくれるのかい?それとも…。」
マグダレーナも、ヨハネの様子があまりにもおかしいことに、気がつきました。
マグダレーナ「それは、構わないけど…。私、あんまり飲めないわよ?」
ヨハネは、ニタッと笑って、言いました。
ヨハネ「それで、いいんだ…。じゃあ、行くとしよう。この近くに、ぼくの行きつけの店があるから…。」

二人は中央神殿からほど近い、一軒のバーに入りました。
バーの名前は「竜宮」。
竜宮城をクビになった、鯛夫がオーナーでした。
鯛夫「いらっしゃい…、おやヨハネさん。」
二人の他に、客はいないようです。
お店には、ナット・キング・コールの「After Midnight」が、かかっていました。
二人は、カウンター席に腰掛けました。
ヨハネ「ぼくは、オルヴァルをもらおう。マグダレーナは、どうする?」
マグダレーナは、場の空気にうまく馴染めませんでした。
マグダレーナ「私は…、モヒートをもらうわ。」
飲み物が運ばれてくると、二人は乾杯し、ヨハネはグイッとあおりました。
ヨハネ「マグダレーナ、勘違いしないで欲しい。ぼくは、君を口説くつもりはない。ぼくの気持ちはどうあれ、君がぼくの方を向いてないって事ぐらい、わかっている。」
マグダレーナは、モヒートには手をつけず、モジモジしながら言いました。
マグダレーナ「そんな事、わかってる…。でもなんで、今日は誘ってくれたの?」
ヨハネは、オルヴァルをグイグイ飲み、グラスを空けてしまいました。
ヨハネ「マスター同じ物を、もう一杯。」
マグダレーナは、少し顔をしかめて、言いました。
マグダレーナ「あまり、飲みすぎないでよ。」
ヨハネは、頓着しないようでした。
ヨハネ「いいんだ。今日は、めでたい日なんだから…。今日こそこの気持ちに、決着をつけてやる。そうだ、今日こそ…。」
マグダレーナはヨハネの様子が、何だか怖ろしくなりました。
ヨハネは、二杯目のグラスも、半分くらい空けてしまうと、突然マグダレーナの方を向き直って、言いました。
ヨハネ「なあ、マグダレーナ…。愛って、何だろう?君は、誰かを愛した事があるのかい?」
マグダレーナは、質問の意味がよく分からず、困りましたが、思った事をいいました。
マグダレーナ「勿論、あるわ。私の心は、ある人に捧げているの…。それは、あなたも知ってるはずよ。それでもあの人は、私の方に振り向いてはくれない…。でも、それはいい。愛っていうのは、全てを捧げる物であって、見返りを求めるものじゃない…。」
ヨハネは、グラスの残りを一気に空けると、一気に言いました。
ヨハネ「そんなのは、詭弁だね!愛っていうのは、お互いを激しく求め合うものだ。君の頭は、おとぎ話に毒されてる…。いいかい?現実ってのは、あんなに甘いものじゃない。時には、お互いを激しく傷つけ合う。それが、愛の怖ろしさなんだよ。」
マグダレーナは、抗弁しました。
マグダレーナ「私はそんな物、愛だと思わないわ。愛っていうのはね、苦しみを分かち合うものよ…。二人で苦しみに耐え、お互いを思いやって、慎ましくやっていく。神様は、そう教えてくれたもの…。」
ヨハネは、空になったグラスを、カウンターに打ち付けました。
ヨハネ「神がなんだ!そんな物、うっちゃっておけばいい…。マスター、マッカランの12年を、ロックで。ああ、勿論ダブルでだ…。」
ヨハネは、まるでテキーラを飲むように、マッカランを一口で飲み干してしまいました。
マグダレーナ「ねぇ、ヨハネ…。いい加減にして。」
ヨハネは、奇妙にニヤニヤしながら、言いました。
ヨハネ「いいんだ、いいんだ…。楽しい夜じゃないか!こんなに美しい女性と、二人っきりで、酒を飲む。こんなに楽しい事はないよ!ええと、何のはなしだっけ?」
マグダレーナは、呆れたように言いました。
マグダレーナ「愛と、神様の話…。」
ヨハネは、手をパチパチ叩いて、言いました。
ヨハネ「そうだった。そう、神なんかに、愛の何がわかる?聞けば奴さん、何でも出来るそうじゃないか。そんな奴に、このしがない人間の苦しみが、わかるはずがない!」
マグダレーナは、どうしていいのか分からず、困ってしまいました。
マグダレーナ「ヨハネ、あなた少しおかしいわ。もう、帰りましょう。あまり、気分が良くない時に、深酒するものじゃないわよ…。」
ヨハネは、絡んで言いました。
ヨハネ「いい子ぶるなよ、マグダレーナ…。あんただって、人間なんだ。欲望だって、人並みにある。あの伝次郎とか言う奴に、抱かれたいんだろう…?」
マグダレーナは、黙りました。
その時、「After Midnight」は終わり、ビル・エバンスの「Waltz For Debby」が、流れ始めました。
ヨハネはうつむきながら、ボソボソ言いました。
ヨハネ「すまない、マグダレーナ…。ぼくは、そういう男なんだ。ぼくには、人を愛する事は出来ない。それは、自分でわかっている…。」
マグダレーナは、何も言いませんでした。
ヨハネ「ぼくの母さんは、聖娼だった…。本人はそれで、神に仕えているつもりだったんだ。ぼくを見てごらん、マグダレーナ。母さんは、美しかった。いつも、何人もの男が出入りしていたよ。そして、ある日消えてしまった。男と一緒にね…。マグダレーナ、それも、神に仕える道なんだろうか?」
マグダレーナ「それは昔の、まだキリスト様がお生まれになる、前の話よ…。今は、違うわ…。」
ヨハネは、何を見ているのか分からない目で、言いました。
ヨハネ「でも、その時はそうだった…。それだって、神が命じた事なんだ。でも、ぼくの気持ちはどうなる…?ぼくは、踏みにじられる為に、生まれてきたのかい?」
マグダレーナは、言葉を探しましたが、見つかりません。
ヨハネ「君は、すぐそうやって、誰かから聞いた言葉を、自分の言葉として話そうとする…。マグダレーナ、君の親父さんはどうだった?どんな人だったんだ…?」
マグダレーナは、はっきりと言いました。
マグダレーナ「私のお父さんは、立派な人よ。神殿に仕える、祭司だったの…。そりゃあ、子供の頃は厳しかったわ。でも私は、感謝してる。そのおかげで私は、道を誤らず、神様の教えを守る、そういう生き方が出来るんだから…。」
ヨハネは、冷たく言いました。
ヨハネ「しかし君は、男から、愛された経験がない…。」
マグダレーナは、少し動揺した様でした。
マグダレーナ「それが、なんだって言うの、ヨハネ?人間の一番の悦びは、神様に仕えて、その教えを守る事よ!それが…。」
ヨハネは、落ち着いた調子で、いいました。
ヨハネ「君は、自由になりたいんだろ、マグダレーナ?」
マグダレーナは、今度ははっきりと、動揺しました。
ヨハネ「君は、厳しかったお父さんから、解き放たれたいんだ…。でも、怖くて出来ない。自信がないから、誰かの腕に、自分を投げ出す事が、出来ないんだ!」
マグダレーナは、また黙ってしまいました。
その時レコードは、マイルス・デイビスの「Kind Of Blue」に、変わりました。
ヨハネは、確信を込めて、言いました。
ヨハネ「ぼくは、君を自由にする事が、出来る。君の心が、ぼくにはなくとも…。」
マグダレーナは、うつむいて言いました。
マグダレーナ「私は…、私が望んでいることは、自由になる事…?それが、怖い?私は、自由になる事を、怖れているの…?」
ヨハネは、諭す様に言いました。
ヨハネ「それは、自分で決めることだよ…。」
マグダレーナは、泣きながら言いました。
マグタレーナ「怖い…、怖いのよ、ヨハネ!もし、自由になったら、私は明日からどうすればいいの?それでも神様は、私に微笑んでくれるの?」
ヨハネは、言いました。
ヨハネ「今、信じるのは、神じゃない。ぼくだよ。」
マグダレーナは結局、モヒートには、一口も付けませんでした。

二人は、近くの安いホテルで、結ばれました。
ヨハネは、まるで赤ん坊を抱き締める様に、優しかった。
マグダレーナは、溺れる人がすがりつくように、激しく求めた。
二人は、永遠の時間を過ごして、やがて別れました。
ヨハネは帰り道、星空を見上げ、マグダレーナもまた、ホテルの窓から、同じ空を見上げていました。