遥かなる旅 6

アベルは、扉を開けました。
アベル「夜分遅くに、すいません…、今晩ここに、泊めていただけないでしょうか?」
扉の向こうは、小さな食堂になっていて、中には不機嫌そうな老婆が、薄汚れた猫を抱えて、椅子に座っておりました。
猫は、二人を見るなり、威嚇して声を上げました。
老婆「金さえ、払えばね。」
どうも、アベル達の他には、お客さんはいない様です。(二人をお客と呼べれば、ですが。)
アベルは、言いにくそうに言いました。
アベル「事情を、聞いてください。実はぼくらは、昼間強盗に襲われてしまって…、一文無しなのです。」
老婆の、薄い眉がピクリと、動きました。
アベルは、もう逃げ出したい気持ちでした。
アベル「だから、今はお金を払えないんです。でも、後で必ず、お支払いします。お礼も、きっとしますから。だから、お願いします。泊めてください!もう他に、行く所がないんです。」
老婆は返事をせず、プイッとキッチンに、引っ込みました。
そしてキッチンから、声が聞こえました。
老婆「勝手にしな。明日の朝、一番で出て行くんだよ。」
アベル「ありがとうございます!」
アベルは、安堵の表情を浮かべて、エリヤを見ました。
エリヤは、なんとも言えない表情で、長いひげを、いじっておりました。
二人は風呂にもつからず、上着を脱いだだけで、そのままベッドに潜り込みました。
布団は温かく、陽の香りがしました。
そして、一晩を明かしたのです。
二人は日が昇る前に、目を覚ましました。
出て行く準備をしていると、アベルは、部屋のテーブルの上に、何か置かれていることに気付きました。
アベル「あれ、何だろう…?」
それは、小さなサンドイッチでした。

街の外れの門の所で、エリヤは突然、アベルに告げました。
エリヤ「アベル、わしは今日一日かけて、ちょっとやる事があるでのう…。時間を潰していなさい。日が暮れたら、またここで、落ち合おう。」
エリヤは、一人で行ってしまいました。
一人残されたアベルは、どうしたらいいのか、わかりませんでした。
時間を潰していろと言ったって、お金がある訳ではないし、本やらなにやら、そういう物がある訳でもないのです。
アベルは途方にくれて、取り敢えず公園に行き、ベンチに座っていました。
アベルは、ボンヤリ考えました。
アベル「エリヤ様は、一体何を考えてらっしゃるんだろう…?ぼくは、衣食住に事欠くのは、生まれて初めてだ。」
アベルはそんな事、想像した事もありませんでした。
全て、あって当然だと、思っていた…。いえ、違います。
あるとかないとか、そういう風に考えた事が無かったのです。
とりわけ、アベルの心を悩ませたのは、お金が一銭も無い事でした。
アベル「お金、どうしよう…?ギリシャまで帰るにしても、歩いて丸二日…。そこまで野宿するにしても、食べ物はどうしたって、いるし。物乞いでも…、あっそうか!」
アベルの頭に、ある考えが閃きました。
アベル「エリヤ様は、ギリシャへ戻るお金を工面するために、物乞いをなさってるんだ!わざわざ一人で行ったのは、ぼくに惨めな思いを、させまいとして…。」
アベルは、お金が無いという事は、何て惨めな事なんだろう、と思いました。
人間が、最低限人間として、胸を張って、誇りをもって、生きるには、自由に使えるお金が、幾らかは必要なのだ、ボンヤリしてまとまらない頭で、考えました。

夕方になって、アベルは門のところに、行きました。
エリヤを待つ間、色々なことが想像されました。
罵られたり、蹴飛ばされてりしながら、必死に頭を下げる、エリヤ…。
そのお金で、腹を満たす自分。
アベルは恥ずかしくて、この世界からいなくなってしまいたい、と思いました。
そうこうするうちに、向こうにエリヤの姿が見えました。
アベルの心は騒ぎました。
エリヤは、馬を引いて現れました。
アベル「エリヤ様…?」
そしてその馬には、アベルが注文した荷物が、全て積まれていました。
それだけではありません。
エリヤは、普段の貧しい身なりではなく、長旅をするのに相応しい、キチンとした格好をしていたのです。
アベルは、はじめ目の前の光景が、信じられませんでしたが、すぐに思い至りました。
アベル「ああ、そうか…!エリヤ様。神様に祈って、色々と頂いたんですね。何だ、それなら初めから、そうして頂ければ良かったのに…。」
エリヤは、アベルの言っていることがよくわからない様でした。
エリヤ「お前さん、一体何を言っておるんじゃ…?わしは今日な、一日かけて、占いをしてきたんじゃ。わしは、そういうのは得意じゃからな。そうしたら、それが当たって、お客さんがウンと来た。芸は身を助く、とは本当じゃ…。わしも、長く裁判長を務めていて、本当に良かったわい。」
アベルは、物事の繋がりがあまりにも、不思議で、軽いパニックでした。
しかし、気を取り直して、続けました。
アベル「じゃあ、昨日の宿に行きましょうか…。昨晩の宿賃と、幾らかお礼をしないと。その後は、どうします?この辺は、いい宿は沢山あるみたいですし。」
エリヤは、あっさり言いました。
エリヤ「そのまま、泊まればよかろう…。わしは、あの宿が気に入った。あの、老婆もな…。」
アベルは、言っていることがよくわからず、返事が出来ませんでした。