すばらしい日々(Grunge Spirits) 8

ファロムは、別荘にいるゼロムに水筒を届けた。

中身は、この間買ったブルーマウンテン…。
高かった。
お母さんにも、怒られた。
でも、飲んでみたかったのだ。
…美味しい、本当に。
ファロムは…、コーヒーにいつもオレオを二枚合わせた。
それで、ゼロムにもお裾分けする。
彼に、分かるはずがない。
メールが返ってくる。
「美味しかった。」
ウソだと、ファロムにすぐ分かった。
それでも、いい…。
ファロムは、ゼロムのそんな所が好きだった。
ゼロムは、ファロムにあまり多くを語らない。
しかし、少ない言葉数の向こうに、彼の傷がうっすらと透けて見えた。
彼に比べて、自分はあまりに恵まれすぎてやしないか?
それは、引け目なんだろうか…、と彼女は考えていた。
ゼロムは次の日、水筒を返しに来た。
「ありがとう、美味しかった。」
指が触れた。
指が震えた…。
ファロムは、そこに宿る歓びの意味を理解しようと努めたが、思い出は指の隙間からポロポロとこぼれ落ちてしまう。
彼女は、天才なのだ。
この年でもう、本当の価値とは「忘れ去られた何か」にこそあるのだ、と悟っていた。
「思い出は、初まりに始まるのではない…。いつも、その時に始まるのだ。」
書物の海原を渡り慣れている、卓抜した女性らしい哲学だ。
しかし、彼女は未だ知らない。
想像力は、遥か彼方からやって来る。
そこに辿り着いた者は、誰もいない。
そして、辿り着く必要などない。
誰かが、そこから歓びを運んで来てくれるのだから。
それが、神である。
彼女は、文学にそれを求めた。
生きる意味を、そこから見つけて行く。
日々、その実感はあった。
ゼロムは、今日もポカリを買いに来る。
そこにいるのは母であって、彼女ではない。
母も、ゼロムに好意は持っていた。
そして、それも自分の名誉に帰する事を、この幼いレディはもう知っている。
その上で、家に帰れば母の名を呼び、甘えるのだ。
女性の持つ想いの深みが、ここにある…。
ファロムの夢想には、際限がなかった。
人によっては、取り止めがないと結論するかも知れない。
私は、自分の意志の奴隷なのだ…。
ファロムは、結論を下していた。
ファロムは、人間の生はある一時この世界にある仮像であり、何もかもが束の間の出来事に過ぎないと理解している。
存在する意味を、全て組み尽くす事は出来ないと。
しかしそれは、想像の話だ。
現実には、彼女の肉体は幼い。
悦びの萌芽は芽生えていても、まだそれを望んではいけない。
ファロムが、ゼロムのはにかんだ笑顔に求めている事も、まだそうした事ではない。
ある事が起きる前、彼女は決まって夢を見た。
夢の中では、ファロムの背中には二振りの翼が羽ばたき、大空を自由に舞っていた。
天使の様になったファロムは、世界をぐるりと一回りする。
すると、もう誰にも受け止めきれない程の悲しみと、誰にも抱えられない程の疲れが、世界を押し潰そうとするのが見えた。
ファロムがどんなに涙を流しても、涙は無へと流れ出してしまい、世界は悲鳴をあげる事を止めない。
その悲しみに引き裂かれた彼女は、ゼロムの名前を叫ぶ。
すると彼は、いつもこう言うのだ。
「ポカリ、一つ下さい。」
ファロムのかける言葉も、いつもこうだ。
「まとめて買えばいいのに。」
ゼロムは、いつも返事をせずに出て行く。
曇りガラスの向こうに、ポカリスエットの缶を高々と持ち上げ、一息で飲み干す彼の姿が見えた。