仏教の本質とは何か?

 まず初めに結論から申しますと、仏教の本質とは「共苦」にあります。多くの方にとっては、あまり耳慣れない言葉かも知れません。意味としては字面そのままで、共に苦しむコト。言い方を少し変えて、「苦しみを共にする」と云う方が伝わるかも知れません。
 より、具体的にご説明致しましょう。例えば、ある日あなたがスーパー・マーケットに出かけたとしましょう。買い物カゴを下げて店内を回り、レジに向かいます。ところがレジの前には、ズラッと人が並び長蛇の列が出来ている。まぁイライラしますよね、それが人情と云うモノです。でもそこをちょっと待っていただきたいのが、仏教の本質である「共苦」なんです。少し気を落ち着けて、レジ打ちをなさってる方を、観察してみてあげて下さい。多分焦ってます、恐らく必死でレジ打ちをこなしてるのではありませんか?それは、そのハズです。レジ打ちのお仕事に従事していれば、お待たせしているお客さんがどれだけイライラしているかは、百も承知です。そして自分がモタモタすれば、それだけ仲間に負担がかかるのですから。だから、レジ打ってる方は一生懸命なのですね。
 「それなら、レジ打ちの人数を増やせばいいじゃないか」、そう思われる方もいらっしゃるでしょう。ところがそこにも、お店の事情があるんです。レジ打ちの方の人数を増やせば、それはそのまま人件費の高騰を招きます。ビジネスの基本ですが、経営する際に最もかかるコストは、結局人件費です。だから、そう簡単には働く人は増やせない。ぼくは、スーパー・マーケットでパートとして働いてますから、多少事情がわかるのですが、どこの小売店も決して余裕のある営業はしていません。
 つまり、あなたがレジで待たされるのは、全体の状況を鑑みれば仕方がないんです。「共苦」とは、レジで待たされてらっしゃるあなたが、レジを必死に打ってるレジ打ちさんの事情を汲む。そしてここからが、まさに「仏教の本質」なのですが、そのレジ打ちさんに「しょうがないな、お疲れさま」と心の中で想うコトなんですね。
 他にも例を挙げると、例えばあなたは若いサラリーマンで、奥さんと子供がいらっしゃる。一日会社で働いて、クタクタになって帰宅すると、お部屋がどうも片づいていない。これも、イライラしますよね。でも実は、そのコトを奥さんは重々承知なのではないでしょうか?奥さんはあなたが働いてる間、泣き喚く幼い子供を幼稚園に送り届けて迎えに行って、あなたの夕ごはんの支度もしながら、必死に家事をこなしているのです。
 逆の立場も、見てみましょう。奥さんにしてみると、「ウチのダンナと来たら、おやすみの日は寝てばっかり」。モチロン、イライラしますよね。しかしそれもちょっと待った、なのです。ダンナさんは、あなたとあなたと幼いお子さんを養う為に、毎日々々横柄な上司に威張られたり、顧客のワガママに振り回されているのです。
 ぼくは、全員とは申しません。しかし多くの方は、自分の置かれた状況や事情の限界に阻まれながら、一生懸命生きているのです。だからこそ、誰もがお互いの立場や事情を少しだけおもんばかり、口に出さなくても構いませんから、心の中でそっと「お疲れさま」とおもいやる。それこそが、苦しみを共にする仏教の本質なのですよ。
 お釈迦さまは悟りを開かれた時、「色即是空、空即是色」を口にされました。この意味については諸説あるかと存じますが、ぼくは決して性的な悦びを否定するモノではないんじゃないかと考えています。では、どう云う意味なのか?それは、「自分だけが気持ちよくなろうとするのは、意味がない」と云う意味だと想っています。これはぼくの考えなのですが、人間は自分一人だけで幸せになろうとしても、無理があるんですね。例えばこの世界が核戦争で滅び、たまたまあなただけが生き残った。これ、ラッキーだと思われますか?友達も恋人も、家族もいません。この世界に、あなた独りぼっちです。そして食べるモノ着るモノも、それから住んで寝るトコロも、全て自分で用意しなければならない。考えただけで、イヤになるでしょう。それだったら、みんなで役割分担する。「私お米作るから、あなたお家建ててよ」、「じゃあぼく魚釣ろうかな、その間にパン焼いといて」。みんなが協力するから、みんなが楽しく生きていけるんです。つまり、自分が幸せになるには、みんなが幸せである必要があるんですね。自分一人では、決して幸せにはなれません。みんなで一致団結して、初めてみんなで幸せになれる。それが「色即是空、空即是色」の本当の意味ではないでしょうか?
 では、他人の苦しみの為に何が出来るのか?こう言葉で思い浮かべると、プレッシャーで面倒臭くなるでしょう。ぼくは、こう云うコトは出来るコトからやればいい、と考えています。例えばあなたは若い男で、駅で階段を上ってホームを目指しています。フッと脇を眺めると、おばあちゃんが大きな荷物を抱えてふうふう言っていた。そしたら、ちょっと一声かける。「ばあちゃん、その荷物おれが持つよ」、あなたの体力なら楽勝なハズです。ところが、おばあちゃんにしてみたら大助かり!そのおばあちゃんは、きっと亡くなられるまで、あなたのお顔を忘れられなくなるでしょう。
 実は、もっとハードルは低くてもいいんです。ぼくが提案したい徳功は、もうなさってらっしゃる方もいるでしょうが、「行き合ったら、道を譲る」、これだけなんです。例えばあなたが会社に向かう通勤途中、歩いて駅を目指していると、一ヶ所道が狭くなっているトコロがある。そこに差しかかると、向こうからも人がやって来た。こんな時ちょっと待って、率先して道を譲ってみましょう。モチロン中には、道を譲られても知らん振りで通り過ぎていく人だっています。しかし大抵の方は、軽く会釈でもなさってから去っていかれるコトでしょう。そんな時、あなたの心に何が訪れるか、あなたはご存知ですか?実は、小さく満足出来るのです。「人間の本性は善に近い」とはある方のお言葉ですが、小さくてもいいコトすると、スカッっと気持ちがいいんですね。それはあなたの小さな功徳に、天にいます諸み仏が微笑まれるからなんですよ。ウソだと思われるなら、試してご覧なさい。
 こうして人は苦しみを分かち合いながら、お互いを慈しんで生きていく。それこそお釈迦さまのみ教えの本質だと、ぼくは考えています。「共苦」とは、他人の都合をちょっとだけおもんばかるコトなのです。